Introduction
戦争の愚かさ、原爆の残酷さのみを声高に訴えるのではなく、その地獄の様な状況にあっても、生きることを諦めなかった父の想いと、その40年後に起こったある事件から導き出され、父から娘へしっかりと受け継がれた、世界の平和を叶えるための大切なメッセージを紐解いていく。
また、ハリウッドのプロダクション会社、ポラリス・ピクチャーズが原作をドラマ化した脚本を制作。制作会社・投資会社・監督候補などと交渉を進め、ハリウッド映画化への準備が進められている。(2020年/アメリカ/51分/シネスコ/5,1ch/原題:「8:15」)Story
父の福一と共に建物疎開の準備をしていた19 歳の美甘(みかも)進示は、自宅の屋根に上って瓦を剥がしていた。その時、目をくらます激しい光が襲った。その "爆発する太陽" は一瞬にして進示を真っ暗闇の奈落の底に突き落とした。史上初めての原子爆弾は広島中を焼き尽くし、瞬く間に7 万人以上の命を奪ったのだ。
真夏の炎天下、父と息子は想像を絶する苦痛の中、ひどく焼けただれた体を引きずって、救助を探し彷徨う。あたり一面息絶えた人々と呻き声で埋め尽くされ、救いの手はどこにも見当たらない。進示はあまりの激痛から解放されたい一心で、死にたいとすら願った。だが父・福一の力強い言葉に支えられ、進示は必死で前へ進む。しかし、父と離れ離れになった進示はひとりきりになり、毎日父が探し当ててくれるのを待っていた。3ヶ月後、何とか歩けるまでに回復した進示は、父を探して自宅のあった場所に戻った。そこで燃え尽きた瓦礫の中から、ガラスは吹き飛び、 高熱により原爆炸裂の時間「8時15分」の針の影が文字盤に焼きついた父の懐中時計を見つける。全て焼き尽くされた広島で進示を家族や先祖と結びつけるものはそれしかなかった。40 年の月日が経ち、進示の平和への願いは形となってニューヨークにある国連本部に届く。しかし、その数年後ニューヨークを訪れた娘の章子は驚くべき事実を知る。日本中を駆け巡ったその知らせは、新たな恵みへと導く光となる―。
Staff & Cast
美甘章子(みかも あきこ)
美⽢進⽰(回想モノローグ):⽥中壮太郎
若い進⽰:ジョナサン・タニガキ
美⽢福⼀:エディ・⼤野・トオル
美⽢進⽰:本⼈
美⽢章⼦:本⼈
嘆く⺟:ユーリ・チョウ
兵⼠:松坂⿓⾺
味噌汁の⼥性:ニニ・レ・フュイン
照男:アーサー・アクシス
Book
「8時15分 ヒロシマで生きぬいて許す心」
未来ではなくて過去にしがみつくことには賛成しない。
そんなことをしていても、何ひとつ良いことは生まれない。
狭い視野で物事を語ってもだめだ。
狭い視野こそが、世界を戦争に巻き込んだのではないか。
―本文より
原作英語版タイトルは、
「8:15 – A True Story of Survival and Forgiveness from Hiroshima」
日本語版の他にはイタリア語、スペイン語、ポーランド語、ドイツ語版が出版されている。
http://www.815book.org (日本語)
https://815hiroshima.com (English)
父の想いを、娘である私が受け継ぎ、息子や娘、そして世界中の若い世代に知って欲しい
父の想いを娘である私が受け継ぎ、本作の撮影や書籍の編集などでも参加してくれた息子のアンドリューや娘の聖羅、またその子孫にも伝えていきたい。戦争、原爆の悲惨さと逆境を乗り越えて生きていく人間の強さを、世界中の若い世代に知って欲しいと思い、本作を作りました。
私は被爆2世の日本人であり、現在カルフォルニア州・サンディエゴを拠点に臨床心理医として生活しています。映画制作は全く初めての経験でしたが、目指したのは「日本人が日本人だけに語る、日本人についての映画ではなく、国籍や信条を超えて万人に訴えるための映画にして、世界へ出していきたい。」ということでした。アメリカで原爆をメインのテーマにした映画を制作するのは非常に困難であるからこそ、30代のアメリカ人制作チーム(監督とプロデューサー、ニューヨークのスタジオ撮影の撮影監督、照明、衣装、特殊メイク、予告編制作、ポストプロダクション、デザイン、キャスト、その他)を編成して挑戦しました。父の物語に感動してくれた若い世代のアメリカ人から観た「生の感覚」を映像に映し出したかったからです。一つの出来事を一つの面からみるのではなく、多角的に観た映画にしたかったのです。例えば、多くの外国人は、「原爆投下があったから戦争が終わった」と信じています。我々日本人でさえ、そう思っている人も多いでしょう。この映画を世界に発信することによって、ご覧になった方がそういった認識をもう一度みつめ直すきっかけになれば良いと思います。父は、祖父福一に叱咤激励されて救われたのですが、父が祖父から受け継いだ許す心があったからこそ戦後75年間も生きぬけたのかもしれません。その許す心によって、個人間から国際関係までの様々なレベルで起こっている葛藤や紛争を乗り越え、文化や信条の異なる人たちが手を取り合い、2度と核戦争で他の人が苦しむことがないようにという父の強い願いのもとに育てられた私は、それを世界に伝えることは自分の使命のように子供の頃から感じていました。
父は昨年、2020年10月に94歳の生涯に幕を下ろしました。ちょうどアカデミー賞予選映画祭の一つであるナッシュビル映画祭開催中に息を引き取り、葬儀開始30分前に観客賞受賞の知らせが届きました。原爆を生き延びてからよく75年間も頑張ってくれ、映画が世界に出るのを見守ってくれたのかなと思い感謝しています。父が元気な頃は、本編(ドキュメンタリー)映画化の話はまだ出ていませんでしたが、本を出版するためやハリウッド映画デベロップメントのための取材やインタビューには快く協力をしてくれ、常に私を励ましてくれました。映画制作の広島ロケの際には、妹一家とその友人達や高校の同窓生、家族の様な父の会社の従業員さん達などが全面的に協力してくれましたし、まさに家族総出で作り上げた作品だと感じます。父から受け継いだ想いと平和への願いは、現在私が代表を務める「サンディエゴ・ウィッシュ:世界平和を願う会」のビジョンでもある「全人類・異文化・国家間の平和と調和の促進」を目指し、いつまでも大切に、また次の世代へと引き継いでいきたいと思います。